ブラームス バイオリン・ソナタ1番「雨の歌」 in G major, Op. 78, "Regensonate"

来週のカントロフ&上田晴子のブラームスバイオリンソナタ1番(雨の歌)に備えて、久しぶりに同曲を youtube の3つの演奏で聴いた。

(1) オイストラフ&無名ピアニスト

1,3 楽章は早めのテンポで進む。はあまりルバートしない。 テンポが早いせいで曲の構成がよく分かり、ソナタ形式の説得力がある。 この曲を早めのテンポで弾くのは実はアリで、なぜなら早めのテンポだと、ふっとしたさりげない陰影を表現するのに意外と良いから。 ポルタメントの仕方が古いが、さすが巨匠、意志的な構成力の強い演奏だった。

(2) シェリングルービンシュタイン

おそめのテンポでオーソドックスにじっくり聞かせる演奏。ピアノが美しい。 さすが両巨匠、バイオリンもピアノもどちらも意図がはっきりしているのに、ピアノトリオのようなぶつかり合いでななく調和が生まれる。不思議だ。

(3) パールマンアシュケナージ

あまり期待していないので、3楽章だけ。 早めのテンポでよく歌う、レベルの高い演奏だ。しかしこの曲には合わない。 諦念の音楽をそんなに朗々と歌ってもねえ。。 アシュケナージのピアノはやはり、よく分からかなかった。

雨の歌を聴いているといろいろなことが脳裏に浮かぶ

バイオリンの最初のスラースタッカートをどう弾くのかがまずは重要なのだが、これは正解はない。あるいはコーダの同じ音型に達したときに納得感があればどれでもOK

ブラームスの音楽はともすると浅田彰が云うように音楽的構成に「逃げる」ときがあるのだがこの曲の場合、モチーフ自体が最初から「逃げている」というか、しとしと降る雨?を慈しむようなささやかな感興が主題なので、それは問題にならない。この曲の3楽章のコーダ、諦念の果てに奇跡的な美と感興が訪れる。晩年のピアノ曲に似ている。

しかし不思議なのは、この曲の演奏機会の存在だ。 曲自体は素晴らしいが、人が明日を生きるために必要とするような音楽ではない。 巨匠のマスターピースというだけで演奏機会は多いだろうが、この曲の演奏が真の意味で当為となる状況が思い当たらない。 唯一思い当たるのが、年をとった演奏家が自分の人生のコーダとしてこの曲を演奏するケースだ。 今回のカントロフの演奏は、まさにそういう演奏である。

また、ブラームスは晩年この曲(雨の歌)をチェロ用に編曲しようとしていたと聞く。 何をしたかったのだろうか?